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狩野山楽は、名は光頼、幼名平三のち修理亮を名乗り、山楽を号しました。近江(滋賀県)の戦国大名浅井長政の家臣木村永光の子。父は浅井家滅亡後秀吉に仕え、山楽は秀吉の推挙で狩野永徳の弟子となったといわれます。若年には永徳の絵画制作に従い、やがて狩野姓を許され、その没後も有力門人として活躍しました。山楽は豊臣家と永徳から受けた恩義を忘れず、狩野本家が永徳の豪壮な画風から離れていくのに対して師風を守り通し、また元和元年(1615)の大坂夏の陣で豊臣家が滅亡するまで大坂にとどまり、戦後残党狩りの標的となりました。松花堂昭乗の庇護と九条家および二代将軍徳川秀忠の歎願でようやく助命され、以後は徳川家の仕事に従事したものの、京都に住んで養子の山雪らとともに制作を続け、狩野本家のように江戸に移って幕府御用絵師とはなりませんでした。この山楽・山雪の家系は、代々京都で画業を引き継ぎ、のちに「京狩野」と呼ばれます。 |