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円山応挙は、姓は藤原のち源。字は仲選。通称は主水。初期には一嘯・夏雲・仙嶺などの号がありましたが、明和3年(1766)応挙と改めました。丹波穴太村(現京都府亀岡市)の農家に生まれ、10代で京都に出て狩野派の画家石田幽汀に画を学びました。また中国の古画から西洋の画法まで独自に研究を重ね、しだいに写実を基本とした自然観照を画面に定着させる新画風「写生画」を確立しました。門人は非常に多く、その流れは円山派を形成しました。寛政2年(1790)の御所造営に一門を率いて障壁画制作にあたったのを始め、妙法院(京都市東山区)、金刀比羅宮(香川県琴平市)、大乗寺(兵庫県香美町)などに障壁画を遺しています。 |